木育は楽しく人を繋げるマテリアル - 2022.09.12 Mon
木育異端児の天声樹語(12)
木育ファミリーになると
会員証として
「木育のタマゴ」が貰える。
それが今年で10個
全10種類の樹木の
木育のタマゴがそろった。

木育ファミリーになって
10年も経ったのかと
これまでを振り返ってみた。
やはり
木育は人を繋げる素材であって
目的ではなくひとつの手段だと思う。
木育とか
いわゆる環境教育の効果は
いろいろとあるが
良いからするのではなくて
自分も含めて
結局は≪ 楽しいから ≫
続けているのだと思う。
あれも木育、これも木育
というだけあって
木育を軸にすれば
『たくさん楽しいこと出来るよ!』
これが根底にあるから
組織も長く続いているし
だから苦労も出来るし
自分も
これまで参加し続けてきた。
大人の社会は
理由を付けなければ
まわらない。
だけど
その理由が
目的になると
続かない。
他を見ても
続くコミュニティは
シンプルに楽しいからなのだと思う。
なんだかんだと
ごちゃごちゃと
格好つけたり
屁理屈こねたりしても
結局は最終的には
楽しいか
楽しくないか
それだけ。
楽しむためには
苦労が付いてくるときもある
楽しい【たのしい】と
楽【らく】は別物だから。
イベントをするにも
大なり小なり苦労はつきもの。
それは当たり前
「木育で何か良いことを!」
なんて意気込まず
楽しいことすればいいの。
木育には
そのポテンシャルがあるから大丈夫。
さぁ、YOUも木育をしよう!
(最終回)
◆木育マイスター デニーロ石谷
木育ファミリーになると
会員証として
「木育のタマゴ」が貰える。
それが今年で10個
全10種類の樹木の
木育のタマゴがそろった。

木育ファミリーになって
10年も経ったのかと
これまでを振り返ってみた。
やはり
木育は人を繋げる素材であって
目的ではなくひとつの手段だと思う。
木育とか
いわゆる環境教育の効果は
いろいろとあるが
良いからするのではなくて
自分も含めて
結局は≪ 楽しいから ≫
続けているのだと思う。
あれも木育、これも木育
というだけあって
木育を軸にすれば
『たくさん楽しいこと出来るよ!』
これが根底にあるから
組織も長く続いているし
だから苦労も出来るし
自分も
これまで参加し続けてきた。
大人の社会は
理由を付けなければ
まわらない。
だけど
その理由が
目的になると
続かない。
他を見ても
続くコミュニティは
シンプルに楽しいからなのだと思う。
なんだかんだと
ごちゃごちゃと
格好つけたり
屁理屈こねたりしても
結局は最終的には
楽しいか
楽しくないか
それだけ。
楽しむためには
苦労が付いてくるときもある
楽しい【たのしい】と
楽【らく】は別物だから。
イベントをするにも
大なり小なり苦労はつきもの。
それは当たり前
「木育で何か良いことを!」
なんて意気込まず
楽しいことすればいいの。
木育には
そのポテンシャルがあるから大丈夫。
さぁ、YOUも木育をしよう!
(最終回)
◆木育マイスター デニーロ石谷
守るべきものは、物ではなく想い - 2022.07.19 Tue
木育異端児の天声樹語(11)
( 前回からの続き )
そのヤナギの老木は
明治天皇が北海道御巡幸のとき
この街に立ち寄った記念として
植えられたものである。
街の開発の影響で
移植を余儀なくされ
今は、この公園に
ひっそりと立っている。
何かしらの公費が
割り当てられたのだろう。
その時は丁寧に
取り扱ってもらえたのだが
今は…
公園に着くなり
目に入ってきたのは
崩壊した外科治療の痕。
幹の痛々しさが
心に突き刺さる。
ほぼ管理されていないと言っていい。
こういうのを目にする度に
思うことがある。

≪ 残して伝えたいものは何か? ≫
巨木、名木の保存というのは
長い年月をかけて成長し
大きな状態で生きていることが
生物学的な価値であり、
そこに
文化や歴史的な価値も相まって
保存するに至るのだが
当たり前のように
多額のお金を費やして
本体を生かすことだけが
保存だと考える行政の対応に
わたしは疑問を感じてならない。
何かを残すということは
何かを伝えるということ。
樹木を保存するには
そこに目的意識がないと
ただ生かしているだけで
活かすことにはならない。
つまり税金の無駄遣い。
植物には特別なことが出来る
それは≪ 挿し木 ≫
人為的繁殖方法のひとつ
元祖クローン技術とも言える。

とくに
記念木のような
文化的価値が強いものは
ある程度
老木本体の保存に努めつつも
挿し木で育成して
新たに更新することも
選択肢として加えて良いと思う。
この方が
健全な文化や歴史の継承と
考えられないだろうか
本当に残したい想いは何か
心から伝えたいものは何か
これが明確だと
死んでも活きる、生き方できる。
◆木育マイスター デニーロ石谷
( 前回からの続き )
そのヤナギの老木は
明治天皇が北海道御巡幸のとき
この街に立ち寄った記念として
植えられたものである。
街の開発の影響で
移植を余儀なくされ
今は、この公園に
ひっそりと立っている。
何かしらの公費が
割り当てられたのだろう。
その時は丁寧に
取り扱ってもらえたのだが
今は…
公園に着くなり
目に入ってきたのは
崩壊した外科治療の痕。
幹の痛々しさが
心に突き刺さる。
ほぼ管理されていないと言っていい。
こういうのを目にする度に
思うことがある。

≪ 残して伝えたいものは何か? ≫
巨木、名木の保存というのは
長い年月をかけて成長し
大きな状態で生きていることが
生物学的な価値であり、
そこに
文化や歴史的な価値も相まって
保存するに至るのだが
当たり前のように
多額のお金を費やして
本体を生かすことだけが
保存だと考える行政の対応に
わたしは疑問を感じてならない。
何かを残すということは
何かを伝えるということ。
樹木を保存するには
そこに目的意識がないと
ただ生かしているだけで
活かすことにはならない。
つまり税金の無駄遣い。
植物には特別なことが出来る
それは≪ 挿し木 ≫
人為的繁殖方法のひとつ
元祖クローン技術とも言える。

とくに
記念木のような
文化的価値が強いものは
ある程度
老木本体の保存に努めつつも
挿し木で育成して
新たに更新することも
選択肢として加えて良いと思う。
この方が
健全な文化や歴史の継承と
考えられないだろうか
本当に残したい想いは何か
心から伝えたいものは何か
これが明確だと
死んでも活きる、生き方できる。
◆木育マイスター デニーロ石谷
人の基準で物を判断しない、決めつけない - 2022.06.14 Tue
木育異端児の天声樹語(10)
以前にも書いたが
わたしは2010年に
巨木、名木を巡る旅をした。
その時に
とある町の公園で出会ったのが
ヤナギの老木。
明治天皇が
お手植えになったということから
町指定天然記念物の、第一号として
登録されている。
出会った時
外科治療は施されていたものの
まだ衰弱していた。
枯れゆくことに
潔さを感じつつも
諦めのような、切なさが混ざった
なんとも言い難い
哀しい空気が漂っていた。


この空気感は
巨木、名木を巡ると、たまに体感するのだが
人から見向きもされていないような樹木にはない。
一斉に造林された山林の
とある1本が自然淘汰で
枯れゆくとき
その場に哀しい空気は
微塵も感じない。
しかし
人目に付く樹木が
まもなく枯れそうな状態の場合は
哀しい空気を感じる。
空気を読むというのは感覚でしかなく
何も証明するすべがないのだが
おそらく
悲しい空気の正体は
人がそこに残した≪ 諦めの想い ≫だと思う。
つまり
人が作り出しているということ。
勝手に誰かが
「もうダメだ」と
決めつけている。
植物は
諦めることもなく
かといって
抗うこともなく
その場の状況に合わせ
なすべきことをして
ただ生きるのみ。
そもそも
枯れること
死にゆくことの
何がダメなのか?
全て
個人の価値観
人の基準で
物を見過ぎていることに
気付かされる。
あれから10年
たまたま
立ち寄る機会があり
久しぶりに
会いに行ってみた
(次回に続く)
◆木育マイスター デニーロ石谷
以前にも書いたが
わたしは2010年に
巨木、名木を巡る旅をした。
その時に
とある町の公園で出会ったのが
ヤナギの老木。
明治天皇が
お手植えになったということから
町指定天然記念物の、第一号として
登録されている。
出会った時
外科治療は施されていたものの
まだ衰弱していた。
枯れゆくことに
潔さを感じつつも
諦めのような、切なさが混ざった
なんとも言い難い
哀しい空気が漂っていた。


この空気感は
巨木、名木を巡ると、たまに体感するのだが
人から見向きもされていないような樹木にはない。
一斉に造林された山林の
とある1本が自然淘汰で
枯れゆくとき
その場に哀しい空気は
微塵も感じない。
しかし
人目に付く樹木が
まもなく枯れそうな状態の場合は
哀しい空気を感じる。
空気を読むというのは感覚でしかなく
何も証明するすべがないのだが
おそらく
悲しい空気の正体は
人がそこに残した≪ 諦めの想い ≫だと思う。
つまり
人が作り出しているということ。
勝手に誰かが
「もうダメだ」と
決めつけている。
植物は
諦めることもなく
かといって
抗うこともなく
その場の状況に合わせ
なすべきことをして
ただ生きるのみ。
そもそも
枯れること
死にゆくことの
何がダメなのか?
全て
個人の価値観
人の基準で
物を見過ぎていることに
気付かされる。
あれから10年
たまたま
立ち寄る機会があり
久しぶりに
会いに行ってみた
(次回に続く)
◆木育マイスター デニーロ石谷
その木は何を思う? - 2022.05.18 Wed
木育異端児の天声樹語(9)
4月下旬から
北海道にも桜前線が到達し
あちらこちらで
「私を見て!」
と、言わんばかりに咲き誇り
否が応にも目に入ってくる。

すると
公有地の緑地帯には
(公園、河川敷地など)
数多くの桜が
植えられていることに気付く。
職業病なのだろう…
そこから無意識に
目視による
樹木の診断が始まる。
健康状態が
あまり良くない桜が
かなり目立つ。
原因は
適した環境ではなかったり
適切に管理されていなかったり
人間の都合によって
植えられ、管理されたがゆえに
病気になって弱ってしまったのだ。
弱ってしまうと
徐々に倒木のリスクが増し
癒しの存在から、危ないモノになり
やがて伐採されてしまう。
これ
《 全て人間の手前勝手 》
建築土木の業界は
「枯れたら、また植えればよい」
と、考える人が多く
木を植えるのは
景観向上のための
材料(モノ)でしかない。
公共工事では
「花がたくさん咲いて綺麗だから」
「みんなが好きだから」と、いった
バカの一つ覚えとも言えるほどの
安易な考えで桜を植える。

人なら、適材適所というが
樹木の場合
適地適木【テキチテキボク】といい
樹木の種類によって
各々適した環境がある。
さらには
管理の方法だって違う。
このようなことを
思いながら桜を見ていると
「綺麗」だけでは済まない。
桜に限らず
人の都合で植えられた樹木たちに
いろんな感情を抱いてしまう。
皆さんも
その樹木のこと
深く考えてみませんか?
◆木育マイスター デニーロ石谷
4月下旬から
北海道にも桜前線が到達し
あちらこちらで
「私を見て!」
と、言わんばかりに咲き誇り
否が応にも目に入ってくる。

すると
公有地の緑地帯には
(公園、河川敷地など)
数多くの桜が
植えられていることに気付く。
職業病なのだろう…
そこから無意識に
目視による
樹木の診断が始まる。
健康状態が
あまり良くない桜が
かなり目立つ。
原因は
適した環境ではなかったり
適切に管理されていなかったり
人間の都合によって
植えられ、管理されたがゆえに
病気になって弱ってしまったのだ。
弱ってしまうと
徐々に倒木のリスクが増し
癒しの存在から、危ないモノになり
やがて伐採されてしまう。
これ
《 全て人間の手前勝手 》
建築土木の業界は
「枯れたら、また植えればよい」
と、考える人が多く
木を植えるのは
景観向上のための
材料(モノ)でしかない。
公共工事では
「花がたくさん咲いて綺麗だから」
「みんなが好きだから」と、いった
バカの一つ覚えとも言えるほどの
安易な考えで桜を植える。

人なら、適材適所というが
樹木の場合
適地適木【テキチテキボク】といい
樹木の種類によって
各々適した環境がある。
さらには
管理の方法だって違う。
このようなことを
思いながら桜を見ていると
「綺麗」だけでは済まない。
桜に限らず
人の都合で植えられた樹木たちに
いろんな感情を抱いてしまう。
皆さんも
その樹木のこと
深く考えてみませんか?
◆木育マイスター デニーロ石谷
花言葉を信じるな。自分は何を感じるか。 - 2022.04.17 Sun
木育異端児の天声樹語(8)

先日京都に行きましたら
ちょうどシダレザクラが満開の時でした。
咲き誇る姿は、とてもキレイ!
そんなシダレザクラの
花言葉は
枝垂れた枝から
いっぱいに咲かせる姿は
「 優美 」であり
この姿は
年を重ねて、こうべを垂らし
より美しく振舞うような
「 円熟した美人 」に見え
うつむいているようにも
見える様子から
偽っているようだと
「 ごまかし 」
と、言われている。
ん~
……コレって
誰かの主観ですよね!?
想像力が豊かなのはわかりますが
それほど共感は出来ません。
わたしの
シダレザクラの印象は
「暖かい地域の春」
「滅多に見られない桜」
オホーツク管内で育ったために
キレイに枝垂れた姿のサクラなんて
見たことがありませんでした。
あるところには
あるのでしょうが
寒いし、積雪で折れるし
普通には見られません。

そもそも
花言葉の付けられ方を
大きく分けると
① 神話、伝説
② 効能
③ 色、形などの特徴
④ ①~③からの印象、連想。
誰かが
勝手に言いはじめて
勝手に広まったものが、花言葉です。
そうです!
決まりが無い、無法地帯状態。
神話や効能は
勉強になって面白いですが
④ なんて
個人、県民、国民によって
それぞれが違う印象を持って当然なのに。
とても違和感があります。
このようなことは
花言葉以外にもあります。
だれかの価値観を
疑問も感じずに受け入れている。
自分は
何を感じ、どう向き合うのか?
自分の感性や価値観を
大切にしてほしい。
◆木育マイスター デニーロ石谷

先日京都に行きましたら
ちょうどシダレザクラが満開の時でした。
咲き誇る姿は、とてもキレイ!
そんなシダレザクラの
花言葉は
枝垂れた枝から
いっぱいに咲かせる姿は
「 優美 」であり
この姿は
年を重ねて、こうべを垂らし
より美しく振舞うような
「 円熟した美人 」に見え
うつむいているようにも
見える様子から
偽っているようだと
「 ごまかし 」
と、言われている。
ん~
……コレって
誰かの主観ですよね!?
想像力が豊かなのはわかりますが
それほど共感は出来ません。
わたしの
シダレザクラの印象は
「暖かい地域の春」
「滅多に見られない桜」
オホーツク管内で育ったために
キレイに枝垂れた姿のサクラなんて
見たことがありませんでした。
あるところには
あるのでしょうが
寒いし、積雪で折れるし
普通には見られません。

そもそも
花言葉の付けられ方を
大きく分けると
① 神話、伝説
② 効能
③ 色、形などの特徴
④ ①~③からの印象、連想。
誰かが
勝手に言いはじめて
勝手に広まったものが、花言葉です。
そうです!
決まりが無い、無法地帯状態。
神話や効能は
勉強になって面白いですが
④ なんて
個人、県民、国民によって
それぞれが違う印象を持って当然なのに。
とても違和感があります。
このようなことは
花言葉以外にもあります。
だれかの価値観を
疑問も感じずに受け入れている。
自分は
何を感じ、どう向き合うのか?
自分の感性や価値観を
大切にしてほしい。
◆木育マイスター デニーロ石谷