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木育は誰のもの 〜ソーシャルインクルージョンという考え方 -  2018.02.12 Mon

 以前、介護施設に勤めていたとき、庭に大きなカシグルミの木があった。その年はとくに実生の物のあたり年で、まるまるとした青いクルミがたわわに実っていた。ご高齢の利用者さんたちが外に出て何かする機会はそう、多くはない。お天気もよく、暖かい午後だったので、クルミ拾いをしてもらうことになった。
 思いおもいに大木の根元を歩いて落ちているクルミをひろう。窓越しにみんなの様子を見ていた私だったが、やがて手に手にクルミではち切れそうな袋を抱えて戻って来たお年寄りたちの様子が、すっかり変わっているのに気づいておどろいた。皆、目が輝いている……。あの人、いつもは椅子に腰掛けたまま、トイレに行くにもおっくうそうにしているのに、今はあんなに元気に歩いている。あの人は最近ふさぎ込んでいたが、にこにこ笑って、頬っぺたが赤い。聞くところによると、ある人はもっと取りたくて梯子に登ろうとし、職員が肝を冷やしたという。そして入って来しなに、あの人が私に言った言葉。
「今まででいちばん楽しかったわ!」

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 クラフトイベントのときも、いくどもそういったお年寄りの参加者との出会いを経験してきた。作り物をしながら、自分のこれまでの人生について、訥々と話す人がいた。きっと、誰かに聞いてもらいたかったのだろう。隣に居合わせたお客さんが、相づちを打ちながら、ずっと聞いてあげている。かと思えば、「これ、作ったらもう一度受付して、また戻って来るから」と、一心不乱に作っているおばあさまもいる。なんでもお孫さんが二人おられるそうで、「いつも私が何か作って持って行ってあげるとよろこぶのよ」と、うれしそうにおっしゃった。この人は、大切に思ってくれる家族に囲まれてくらしているのだな、と感じた。
 一方、若い世代からのアプローチもある。木のスプーンを作っていたある親子は急いでいて、あまり時間がなかった。途中まで作って、あとは帰ってから完成させる、という。「道具はあるのですか?」と聞くと、「それは大丈夫、おじいちゃんが持っているから」「じゃあ、分からないところがあったらおじいちゃんに聞けますね」お母さんと男の子はにっこりと頷いた。おじいちゃんが昔取った杵柄で、孫の尊敬を一身に集めながら、ニコニコしている姿が目に浮かぶ。
ソーシャルインクルージョンとは、障がいのある人も、社会的弱者も、そうでない人も、すべての人を包み込む社会をつくっていこうという考え方だ。世間には色々な人たちがいる。当然、様々な事情をかかえている。そうした中で、木育が望まれている形も一様ではない。

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 ある日、何気なくテレビを見ていたら、地下鉄車両の車椅子スペースの話をしていた。正式に何というのかは分からないが、シルバーシートの向かい側にある座席のない空間がある車両を時おり目にする。どうやら車椅子やベビーカーを置くためにあるらしい。どう思うか、というインタビューに答えて、「入口の所にベビーカーが置いてあると乗り降りがしにくいので、そういうものを設けることは必要だと思う」と言っていた。全体にそのスペースを利用する立場にある人とそうでない人が共に地下鉄を利用するために有益なシステムである、というような論調であったように記憶している。
 そういうスペースやシルバーシートは誰が、どう使うためにあるのだろう。社会的弱者といわれるお年寄りや妊婦さん、障がいを持つ人や小さい子供を連れたお母さんが安心して利用できるようにと作られたものではないのだろうか。決してそこに社会的弱者を囲い込むためのものではない。基本的には全ての席がシルバーシートであらねばならないはずだ。弱者を守り包み込む社会とは、インフラのみが充実した環境ではなく、共に支え合うことを目標に掲げて生きる、その心構えを持った人達が作り上げるシステムをいうのではないだろうか。知識を身に付け、想像力を養い、人の痛みを我がこととする。そして何の気負いもなく息をするように自然に、必要としている人に手を差し伸べてあげられる。差し出された手をありがとうと笑って、握り返すことができる。そんな人と人とのつながりが真に成熟した社会を創っていくのだ。そしてそれが、こうしたさまざまな人たちを迎える活動を通して、木育が達成すべき目標の一部なのだと思う。

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 取り分け印象に残っているできごとがある。あるクラフトイベントで障がい者のグループが参加してくださったことがあった。事前に「可能だろうか」との問い合わせがあった。少し難度の高い作りものだったため、講師以外に一人に一人の補助がつくのが望ましいと回答した。しかし、引率者は全体で一人のみという。当日講師は三人しかいない。参加グループは五人。難しいだろう、という結論が出された。でも、ちょっと待って! もう一度考えてみよう。できない、といってしまうのは簡単だけれど、それでよいのだろうか。せっかく申し出てくれたつながりをこちらから断ち切ってしまうのは悲しすぎる。私たちは覚悟を決めた。うまくいかないかも知れないけれど、最善をつくすから、とにかくやってみてほしいと提案した。そして全員が席につき、講師たちはくるくると参加者のあいだを廻りながら製作をすすめていった。座学部分を全てそぎ落としたにもかかわらず、予定の二倍近い時間を要して、それでもなんとか、全員がほぼ満足する形にできあがった。あとで講師の一人が、ある体験者はあまり手が使えなかったので、ほとんどの部分は私が手助けしました、と告白した。でも、その人は楽しそうでしたと。それでよい。たとえ自分は少ししかできなかったとしても、その人ができるかぎりの力をつくすことによって満足してくれたなら、目的は充分に達成されたと言ってよいだろう。のちにその方たちは、お礼の言葉と写真を送ってくださった。お礼を言うのはこっちのほうだ。あの方たちこそ、私たちの先生だったといえる。始終笑顔でうなずきながら、教え手である私たちを励ますように接してくださった姿を思い出す。そして、最後まで投げ出さず、真摯な努力で物を作り上げていくその情熱に、私たちは深い感銘をうけたのだ。
おくられた写真の中で、その成果である白樺のオーナメントは、まるで勲章のように、作り手の胸に輝いていた。

◆ ようてい木育倶楽部 / 木育マイスター  斎藤香里

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