高田宏さんとの出会い - 2020.05.18 Mon
KEMさんの木育生活05
北海道で「木育」が生まれたのは、2004年(平成16年度)の木育推進プロジェクトです。
木育の取り組みは今年で16年目を迎え、全国に先駆けて各種イベントの実施や木育マイスターの人材育成など、行政と民間の協働によって森林づくりの大きな柱としてこれまで進められてきました。
では自分にとっての木育の原点は、どこから生まれたのだろうと考えてみました。
私は20歳の時に木と出会い、木工の仕事を通して社会とつながることを目指してきました。でも木育という言葉が生まれるずっと前から、様々な人との出会いが、自分の心の中に眠っていた「木育の種」が芽生えるきっかけとなったのです。そんな中から思い出深い人々を紹介したいと思います。
KEMの種
高田宏さんとお会いしたのは一度だけ、1994年のことです。翌年に日本テレビ放送から出版される『木遊び』と題した本の取材のためでした。
高田さんは、1932年京都市生まれ石川県育ち。編集者を経て作家になり、90年には『木に会う』で読売文学賞を受賞された自然に関する著述の多いかたです。私は以前より木や森、雪、子どもなどに対する向き合いかたに共鳴し尊敬していました。自分にとって本の中の存在だった人が、わざわざ札幌の工房まで会いに来てくださるというのです。高田さんの他の著作も読み返し、少し緊張して当日に臨みました。
高田宏さんの著書
それは8月のある日。残暑厳しい本州と比べればお盆を過ぎた北海道の空気は爽やかに感じられたことでしょう。高田さんは家の周囲を回ってから室内には入らず、木々の緑が濃い中庭での立ち話から始められ、そして私の木のタマゴをいくつも持っていることを語られました。私はモノを通してすでに出会っていたことを知り、初対面の堅苦しい雰囲気は全く感じなくなりました。取材というよりは問われるままに話しているうちに、自分の考えが整理され素敵なキーワードが浮かんでくるのです。時間を忘れて満ち足りた気分で数時間を過ごし、帰られる時に著書にサインをお願いしました。これからの励みになるように、メッセージを添えてくださいとの希望に快く応じてくださったのが「森と子供たちの仲間として」の言葉です。私の宝物となりました。

そして1995年日本テレビ出版から『木遊び』10人の木のおもちゃ作家との対話から、という単行本が出版されました。以下、「煙山泰子さんとの対話から」引用

― 北海道の森へ出かけたとき、通りがかりの木工品展示館で、木の卵を買った。ナラやニレやクルミやサクラなど、いろんな木を卵そっくりの形にしてあるものだ。
ずっとあとになって、それが煙山泰子さんの「KEM工房」の作品だと知ったのだが、そのときは何か無性になつかしい気がして、五つ六つ買い込んだのだった。
それまで見たことのないものだったけれども、なつかしさに襲われたのだ。東京に帰ってからは机の上に置いて、毎日のように触っている。
木の卵を触っているうちに思い出したのが、あのシイの木のうろだった。もちろん木の卵は閉じていて芯まで結まっているのだが、鳥の卵か虫の繭のような内部の空間を想像させるのだろうか。その空間が老木の空洞を連想させたのかも知れない。
もしも昔、子供のぼくが木の卵を手に入れていたら、どうしただろうか。そう考えてみると、いくつかの木の卵をシイの木の空洞に持ち込んでいる自分が目に浮かんでくる。うろの底に木の卵を並べ、いつか卵から出てくる不思議な鳥とか、不思議な木の芽とかを待ちつづけている子供の姿が見えてくる。
木の卵はごく単純なものだ。それをデザインと呼べるのかどうかも分からない。煙山さんが考え出した木の卵を、北海道·津別町の職人さんたちがロクロを回して挽き出しているだけのものだ。木の卵をどうやって遊ぶかといった決まりはない。そのへんに転がしておくだけのものかも知れないのだが、しかしそこには何かがある。子供に夢を紡がせるような何かだ。想像力を刺激するもの、と言ってもいい。おもちゃの原点がここにあるのではないか。そして、あえて言うなら、この木の卵は、大人の中の幼児を目覚めさせるものでもあるだろう。―

この本では、表紙に私のドングリ・コロコロ(コマ)を使ってもらったのも嬉しいことでした。
その後も木のおもちゃの新作を近況報告のつもりで送らせていただき、お礼のハガキを受け取りました。
こんな出会いが、木のモノを通して人がつながる木育の芽生えとなっています。
◆KEM工房/木育ファミリー顧問 煙山 泰子
北海道で「木育」が生まれたのは、2004年(平成16年度)の木育推進プロジェクトです。
木育の取り組みは今年で16年目を迎え、全国に先駆けて各種イベントの実施や木育マイスターの人材育成など、行政と民間の協働によって森林づくりの大きな柱としてこれまで進められてきました。
では自分にとっての木育の原点は、どこから生まれたのだろうと考えてみました。
私は20歳の時に木と出会い、木工の仕事を通して社会とつながることを目指してきました。でも木育という言葉が生まれるずっと前から、様々な人との出会いが、自分の心の中に眠っていた「木育の種」が芽生えるきっかけとなったのです。そんな中から思い出深い人々を紹介したいと思います。

KEMの種
高田宏さんとお会いしたのは一度だけ、1994年のことです。翌年に日本テレビ放送から出版される『木遊び』と題した本の取材のためでした。
高田さんは、1932年京都市生まれ石川県育ち。編集者を経て作家になり、90年には『木に会う』で読売文学賞を受賞された自然に関する著述の多いかたです。私は以前より木や森、雪、子どもなどに対する向き合いかたに共鳴し尊敬していました。自分にとって本の中の存在だった人が、わざわざ札幌の工房まで会いに来てくださるというのです。高田さんの他の著作も読み返し、少し緊張して当日に臨みました。

高田宏さんの著書
それは8月のある日。残暑厳しい本州と比べればお盆を過ぎた北海道の空気は爽やかに感じられたことでしょう。高田さんは家の周囲を回ってから室内には入らず、木々の緑が濃い中庭での立ち話から始められ、そして私の木のタマゴをいくつも持っていることを語られました。私はモノを通してすでに出会っていたことを知り、初対面の堅苦しい雰囲気は全く感じなくなりました。取材というよりは問われるままに話しているうちに、自分の考えが整理され素敵なキーワードが浮かんでくるのです。時間を忘れて満ち足りた気分で数時間を過ごし、帰られる時に著書にサインをお願いしました。これからの励みになるように、メッセージを添えてくださいとの希望に快く応じてくださったのが「森と子供たちの仲間として」の言葉です。私の宝物となりました。

そして1995年日本テレビ出版から『木遊び』10人の木のおもちゃ作家との対話から、という単行本が出版されました。以下、「煙山泰子さんとの対話から」引用

― 北海道の森へ出かけたとき、通りがかりの木工品展示館で、木の卵を買った。ナラやニレやクルミやサクラなど、いろんな木を卵そっくりの形にしてあるものだ。
ずっとあとになって、それが煙山泰子さんの「KEM工房」の作品だと知ったのだが、そのときは何か無性になつかしい気がして、五つ六つ買い込んだのだった。
それまで見たことのないものだったけれども、なつかしさに襲われたのだ。東京に帰ってからは机の上に置いて、毎日のように触っている。
木の卵を触っているうちに思い出したのが、あのシイの木のうろだった。もちろん木の卵は閉じていて芯まで結まっているのだが、鳥の卵か虫の繭のような内部の空間を想像させるのだろうか。その空間が老木の空洞を連想させたのかも知れない。
もしも昔、子供のぼくが木の卵を手に入れていたら、どうしただろうか。そう考えてみると、いくつかの木の卵をシイの木の空洞に持ち込んでいる自分が目に浮かんでくる。うろの底に木の卵を並べ、いつか卵から出てくる不思議な鳥とか、不思議な木の芽とかを待ちつづけている子供の姿が見えてくる。
木の卵はごく単純なものだ。それをデザインと呼べるのかどうかも分からない。煙山さんが考え出した木の卵を、北海道·津別町の職人さんたちがロクロを回して挽き出しているだけのものだ。木の卵をどうやって遊ぶかといった決まりはない。そのへんに転がしておくだけのものかも知れないのだが、しかしそこには何かがある。子供に夢を紡がせるような何かだ。想像力を刺激するもの、と言ってもいい。おもちゃの原点がここにあるのではないか。そして、あえて言うなら、この木の卵は、大人の中の幼児を目覚めさせるものでもあるだろう。―

この本では、表紙に私のドングリ・コロコロ(コマ)を使ってもらったのも嬉しいことでした。
その後も木のおもちゃの新作を近況報告のつもりで送らせていただき、お礼のハガキを受け取りました。
こんな出会いが、木のモノを通して人がつながる木育の芽生えとなっています。
◆KEM工房/木育ファミリー顧問 煙山 泰子